朝倉氏の滅亡後、越前国北の庄を与えられた柴田勝家は天正3年(1575年)に築城を開始する。
城は足羽川と吉野川が合流した位置に築かれ堀の一部に足羽川を使用していたと推測されており天守閣は
七層(一説には九層)構造で織田信長の安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1518年)に北の庄城を訪れたときの記録によると「城及び他の屋敷の
屋根が全てことごとく立派な青石で葺かれており、その青色により一層の美観を増した」とある。
この「青石」とは城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の
石垣もすべて笏谷石である。 また北の庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城
も天守閣の瓦がすべて笏谷石で葺かれており、現在もその美しい甍(いらか)の様子を見ることができる。
笏谷石クロック(大)金色
笏谷石クロック(小)文字入れ例
\5,500
笏谷石クロック(大)銀色
笏谷石クロック(小)金色
笏谷石クロック(小)銀色
\5,500
\3,500
\3,500
(税込)
(税込)
(税込)
(税込)
笏谷石クロック(大)文字入れ例